こんにちは。
突然ですが、ちょっと質問です。
「試験には100例が参加した」という日本語にどれだけ違和感を感じるでしょうか。
ちょっと違和感を感じる方もいらっしゃると思います。
治験関連の文書にはよく登場する文章で、「100名(の患者)」という意味です。
では、
「試験には患者100例が参加した」ならどうでしょうか。
こちらは恐らくそれほど抵抗は感じないはずです。
この、患者の表現の仕方には英文側には明確なルールがあります。
患者にはpatient、症例にはcaseを使えというルールです。
それに対し日本語側にはそこまで明確なルールはないように感じます。
今日は英語側のルールの紹介と、日本語側でどう訳し分けたらよいのかについて考えてみます。
Contents
英語側の絶対的ルール:caseは症例、patientは人
先日参加した日本メディカルライター協会主催の、メディカルライティング基礎講座。
(講座の内容に興味がある方はこちらの過去記事をどうぞ→「テクニカルライティング」から「メディカルライティング」を学ぶ)」
4コマあるうちの実に3コマで登場した内容が、「case(症例)とpatient(患者)の使い分け」でした。
さらに、手元にある治験翻訳(英訳)関連の書籍にも必ず同じ内容が登場してきます。
それくらい「治験翻訳あるある」なテーマです。
ルールの根拠:AMA Manual of Style
caseとpatientの使い分けのルールについて、ざっくりと説明します。
case は症例=事例であって人ではない。
patient は患者=人であって事例ではないので、モノ扱いしてはならない。
「AMA Manual of Style」という米国医師会発行の、メディカルライティング用のスタイルガイドがあります。
多くの医学雑誌はこのスタイルガイドを採用しています。
スタイルガイドとして採用している医学雑誌に投稿する際はもちろんのこと、その他の英文メディカルライティングでも一般的にこのスタイルガイドを採用しています。
そしてこのスタイルガイドにもcaseとpatientの使い分けが載っているために、英文を書く際には特に気を付けないといけない、ということなのですね。
先日のメディカルライティング基礎講座での資料には、AMA Manual of Styleの記述として次のような例が載っていました。
x A 63-year-old case of type 2 diabetes…
○ A 63-year-old man with type 2 diabetes…
(63歳の2型糖尿病患者は~)
症例ではなく「患者」の事を指しているので、caseではなくmanを使うべきということですね。
もう1例、引用します。
X Seven cases of food poisoning were admitted for treatment.
○ Seven patients with food poisoning were admitted for treatment.
(食中毒患者7名が治療のために入院した)
NG例では、「case」という症例が「be admitted(入院)」した、と「擬人化」されてしまっているのでNGだとわかりやすいと思います。
このように、「patientは人、caseは症例」と厳格に使い分けをしなくてはならないのが英語のメディカルライティングのルールです。
本当に使い分けされているのか、確かめてみた
英文ライティングに、「patientは人、caseは症例」というルールがあるのはわかりました。
でも、本当に守られているんでしょうか。
ということで、実際の文書を見てみましょう。
有名どころで、オプジーボ(ニボルマブ)という分子標的治療薬(抗がん剤の一種)の添付文書を見てみました。
原文はこちらです(https://packageinserts.bms.com/pi/pi_opdivo.pdf)。
日本語版はこちらですが、原文と日本語版の内容は完全には一致していません。
原文中をcaseで検索するとわずか6件しかヒットしません。
かたやpatientは644件ヒットします。
これだけで、「case」は少なくとも添付文書にはあまり使用されないのだなとわかりますね。
他の英文添付文書をいくつか見てみましたが、同じ傾向です。
patientとcaseが1文に混じっているものを見かけたので、これで違いを考えてみます。
In patients receiving OPDIVO as a single agent, diabetes occurred in 0.9% (17/1994) of patients including two cases of diabetic ketoacidosis.
私訳:オプジーボの単独投与を受けた患者のうち、糖尿病性ケトアシドーシスの2例を含む0.9%(1994例中17例)の患者に糖尿病が発現した。
訳文は日本語側添付文書に見当たらなかったので私がつけました。ですのでひとまず英文側のみ注目してください。
2度出てくるpatientの部分を抜き出します。
- patients receiving OPDIVO as a single agent (オプジーボを投与された)
- diabetes occurred in 0.9% (17/1994) of patients (糖尿病が起こった)
薬を投与されるのは人ですし、糖尿病が起こるのも人ですよね。
かたやcaseはどうでしょうか。
- including two cases of diabetic ketoacidosis (糖尿病性ケトアシドーシスの2例)
「糖尿病性ケトアシドーシス」は病名です。
人ではないのでcaseを用いている・・・ということでルールとしてはすっきりしますね。
ただ、個人的に少し思ったことがありました。
もう一度文章を引用します。
In patients receiving OPDIVO as a single agent, diabetes occurred in 0.9% (17/1994) of patients including two cases of diabetic ketoacidosis.
私訳:オプジーボの単独投与を受けた患者のうち、糖尿病性ケトアシドーシスの2例を含む0.9%(1994例中17例)の患者に糖尿病が発現した。
なぜ「0.9%の患者のうち、患者2名(patients)を含む~」ではなくわざわざcasesなのかなと少し違和感がありました。
「患者○%のうち、患者○名を含む~」の方がレベル感があう感じがしたからです。
「患者2名」に勝手に文章を作り替えてみたのですが、この文章はやはりネイティブから見たら違和感があるのでしょうか。
In patients receiving OPDIVO as a single agent, diabetes occurred in 0.9% (17/1994) of patients including two cases of patients with diabetic ketoacidosis.
・・・と考えていたら、なんとなく見えてきました。
同じ患者でも、もしかしたらある患者さんが「糖尿病性ケトアシドーシス」以外にも「糖尿病性○○」という違う病気を併発している可能性がありますよね。
仮に1人の患者さんが複数の違う症例を発症しても、患者(patients)単位では1になってしまいますよね。
あくまでも妄想に近い推論ですが、このあたりが関係しているのかなと思いました。
日本語側での使われ方と訳し方
ここまでは英語側のルールと使われ方を見てきました。
日本語側はどうかというと、特にルールとして明文化されていないようです。
ただし、「症例」はあくまでも「事例」であって人間ではないので、日本語の一般的な使い方として、「試験には100例が参加した」というのはあまり適切ではないのでしょう。
とはいえ、「試験には100例が参加した」といった文章は実際の日本語メディカル文書の中には多用されています。
「患者○例が~」という文章は医薬品の販売承認申請書類の中でも一般的に用いられています。
それでは、実際の文章でみてみましょう。
日本語メディカル文書での使われ方
日本語での使われ方について、一例をあげます。
先ほどのオプジーボの日本語版添付文書から引用します。
〈悪性黒色腫〉に対する国内第Ⅱ相試験(ONO-4538-02及び08試験:59例)、国際共同第Ⅲ相試験(ONO-4538-21/CA209238試験:日本人18例を含む452例)~(中略)~ の安全性評価対象の計1,645例中、1,160例(70.5%)に副作用(臨床検査値異常を含む)が認められた。
全く同じ文章は英語版の添付文書にはないのですが、仮にこの日本語を英訳するとしたら、文中の「例」は全て「patients」と訳されるはずです。
この「例」を症例とみることもできますが、例えば「日本人18例」という言い方(直訳で18 cases of Japanese)は、英文メディカルライティングのルールとしては容認できないでしょう。
日本人は人であって症例じゃない!!と。
(ただ、これはあくまでもメディカルライティングのルールなので、実際にはこのような英文は多く見かけます)
日本語の「日本人18例」に私たちは恐らくそこまでの違和感を感じないと思います。
ここからはまた妄想になりますが、
「例」は人を示す助数詞のひとつとして使われていて、私たちは患者100名だろうと、100人だろうと、100例だろうと、助数詞の違いをそこまで意識せずに「個別の人である」という認識しかしていないからではないかと思います。
また、「100例」と言えば、確かに「何かの試験などの対象者(症例としての人)」のニュアンスが強くなります。
ですが、それに対して「人は症例ではないから使い分けをするべきだ」という考え方は生まれないでしょう。
このあたり、西洋人と日本人の「人」と「その他」の認識の違いが出ているように思えて、なかなか面白いです。
メディカル文書の英文和訳での訳し方
ここまでで、patient(患者)とcase(症例)のメディカル文書での扱い方について、英文では明確なルールがあり、日本語ではそこまで厳格に使い分けされていない、という話をしました。
英訳するときに、日本語中の「例」は患者を指しているのか症例を指しているのか、把握してから訳す必要がありますね。
では、逆に英文和訳の場合はどうでしょうか。
case(症例)に関しては、基本的にそのまま「例・症例」となると思います。
問題はpatientですよね。
英文側のルールに沿って、人を指している場合は「100名」「患者100名」などにすべきなのかどうか。
少し気になったので、実際の文書の使用状況をざっくり調べてみました。
医薬品の製造販売承認機関であるPMDAのサイトで、「患者~例」と「患者~名」でどちらが多いか調べたところ、若干「患者~名」の方が多いのですがどちらもほぼ同じくらい使われています。
調査方法:
- 「”患者 * 例” site:http://www.pmda.go.jp/」でgoogle検索→約12,400件
- 「”患者 * 名” site:http://www.pmda.go.jp/」でgoogle検索→約15,100件
検索結果からは、どちらでもお好きにどうぞ、な感じですね。
実際は、仕事として英文和訳を受けている時はそのクライアントの指示に従う、あるいは前例に合わせるような形になるとは思います。
まとめ
英文メディカルライティングでは、caseとpatientの使い分けは非常に大切です。
多くの医学雑誌がスタイルガイドとして指定している「AMA Manual of Style」にも記載があるため、特に論文の執筆・英訳の際には注意する必要があります。
日本語では現状、使い分けは厳密ではなく、「患者○例」という記載は多く見られます。
英語のpatientの日本語訳としても「例」が使用されています。
日本語でも「症例」はあくまでも事例ではあり原則としては「患者○名」が正しいと思われますが、和訳の際にはクライアントのスタイルガイドなどを考慮して柔軟に対応する必要がありますね。